2011年8月18日木曜日

比べて生きること

比べて生きるということについていろいろ思うことがあって
書いてたんですが、急遽文章が消えちゃった
このハンパねぇ喪失感の中、再度書くのは精神的に大変困難なため、
超短縮して書きますと
下記に引用しているメールマガジン&ヤフー知恵袋
読んでくださいなって感じです。

そして結論、僕は比べて得られる豊かさ幸せの中で生きており、
でもいつか脱出を試みるために仏教でも学びたいなぁ
と思った今日この頃です。

おすすめの宗教あれば教えてくださいまし。

とか言っちゃったらいろんなお誘いきそうだな。

よし、5分で書き終わりました。



------------------------
「安田佳生メールマガジン」

貧富の差



貧富の差があってほしい人、無くなって欲しい人、

実際どちらの方が多いのだろうか。

人はみんな支えあって生きている、協業して生きている。

一人では出来ないことを組織の力で成し遂げ、

一人では手に入れられないものを

役割分担によって手に入れている。

みんな持ちつ持たれつなのだ。



一人で生きているのに比べたら、

誰しもが豊かで恵まれた生活を手に入れているはずだ。

社会を作り、協業し、役割分担することによって。

もしも無人島に一人流れ着いたとしたら、

小さな藁葺きの家を建て、木の葉や動物の皮で衣装を作り、

小さな畑を手に入れるだけで人生が終わってしまう。

いや、そんな豊かな生活を手に入れることなど

ほとんど不可能で、実際には生きていくのが精一杯だろう。

それに比べたら、私たち人間はとても豊かな生活を営んでいる。

日本人は特にそうだろう。

世界でも有数の恵まれた生活を手に入れた国民。

それが私たちだ。



だが実際には、私たちにそれほどの満足感はない。

それは、自分以上に恵まれた人たちが目に入ってしまうからだ。

無人島に流れ着いた自分と比べて、

ああなんて自分は恵まれているのだろうと

満足するフリーターがいるだろうか。

自分の周りが自分よりも豊かな人たちで満たされていたら、

到底豊かさなど感じることは出来ない。

それが人間という生き物なのだ。





 震災で苦しむ人たちを見ると、

少々苦しくても自分たちは恵まれているんだと納得する。

テレビに大金持ちが登場すると、

自分だけ損な役割を引き受けているような気分になる。

つまり、豊かさや貧しさは誰と比べるかによって変わる。

私たちは他人と比べずにはいられない生き物なのだ。



「他人と比べてもしょうがないよ」

などと諭されようとも、本能だから変えようがない。

比べずにはいられない。

その場合、私たちは貧富の差があること

��つまり誰かと比較して喜んだり落ち込んだりすること)

を求めるのだろうか。それとも

貧富の差がないこと(比較しようがないこと)
を求めるのだろうか。



現実はともかくとして、そのような貧富の差を無くそうというのが

共産主義的発想だと思う。

比較する対象がなければみんな幸せでいれるじゃないか。

だから私有財産など持たず、平等に豊かな生活を手に入れよう。

その思想はある意味正しいと思う。だが機能しなかった。

「頑張っても頑張らなくても結果が同じなら、頑張らなくていい」

という結論に行き着いてしまうからだ。

もちろん、実際には同じではない。

頑張れば皆でより豊かな暮らしが出来るのだし、

頑張らなければ皆貧乏になる。だがそれでも頑張らなかった。

みんなで豊かになることに魅力がなかったからだ。





 本当のことを言うと、人はみんなで豊かになりたいのではなく、

他の人よりも豊かになりたいだけなのではないのか。

それも、出来るだけたくさんの他の人よりも。

もしも、本当にみんなで豊かになりたいのなら、

土地など私有化する必要がないと思う。



一人50坪なり60坪なりを国から支給する。

都心は狭く、地方なら広くしてもいい。

とにかく土地は国から借りて、国に返す。そうすれば

土地を購入するために人生をローンで縛られることもない。

みんな一戸建てに住める。

子供は親の土地にそのまま住んでもいいし、

親の土地を返して新しい土地を借りてもいい。

大豪邸に住んでいる人もいなければ、

ウサギ小屋みたいに狭いところに住んでいる人もいない。

理想の世界ではないか。



だが誰もそんな世界を求めてはいない。

いや、正確に言うと、求めていない人のほうが多い。

アメリカンドリームという言葉に代表される、

自由で平等なチャンスを求めている人のほうが圧倒的に多い。

そこでは確かに誰にでもチャンスはある。

だが、その確率は天文学的に低い。

人並みはずれた才能と努力、

そして桁外れの運に恵まれることによってしか

アメリカンドリームは実現しない。だがそれでも人間は求める。

他の人よりも豊かになることを。

どう考えても、全員がそこそこ豊かになる方が

はるかに簡単だと思うのだが。



結論。

誰が何と言おうとも、

私たち人間は「貧富の差」を自ら求めているのである。



------------------------


ではでは。

2011年8月7日日曜日

よっしーというオトコ

彼の名前はよっしー。

ホイアンに来て3ヶ月目になる。

彼が何者なのかということについては
twitterブログをご覧になって頂きたい。


twitterやブログを見た皆様はきっと・・・












暗っ












特にブログ暗っ








と思った方も多いはず。

これをきっかけによっしーのブログがポップな感じに変化したら
また皆様にお伝えしたいと思います。

彼はつい先日「元気ネガティブ野朗」という称号を得たので、
今後も暗さを強さに変えてくれることでしょう。

でもでも彼はこんな素敵な笑顔ができる奴なんです。
そこんとこおさえて彼のメッセージを読めばきっとポップな感じになるはずです。






・・・・・・







とここでよっしーの写真を公開したいところですが、
「僕顔見せNGなんです」とアイドル的発言をされたため
ご興味ある方はホイアンまでお越しくださいませ。


さて話は変わりますが、
今日は彼がダナンに来たということで一緒に食事に行って
いろいろ話してきたのですが、2つ得に印象に残ったことがあり
それを少し紹介したいと思います。

「統計や情報を調べてあれこれ考えるより、
      先に飛び込んじゃったほうがいい。」




よっしーは大学を卒業していきなりベトナムにやってきた強者だ。

僕の見解では海外で働くということはそんなたいそうなことではなく、
行ってみると意外にどうにかなる場所であり、
条件は様々であるが意外に仕事はあるものである。

そこは決して限られた一部のエリートだけが
働けるというフィールドではないのだ。


ただしかし行くことができない。

それが多くの人にとっての現状ではないだろうか。

きっと給与、将来のキャリア、言葉、治安、衛生などなど
二の足を踏んでしまういろんな理由があるのだと思う。

日本から外国に一歩を踏み出す。
ここに外国で働くことを阻む壁があるように僕は思う。


そんな中、よっしーは
「世界中に仕事はたくさん広がっているのだから、
統計とか情報とか調べてあれこれ考えるより、
先に飛び込んじゃったほうがいいんじゃないか。」

と思ってあっさりさっぱりホイアンまでやってきた。

彼も当初、海外で仕事するなんて発想は全く無かったようだが
ブログでなどを通じて外国で働く日本人の存在を知り、
実際に外国を旅してよりその実感を高めたようだ。

選択肢を多く持つってことと、
あまり頭で考えすぎずやってみるってこと。

まずはそんな感じでいいんじゃないでしょうか。




「消費者側ではなく生産者側に立ちたい。」

「旅の途中で日本語を教える手伝いをした時、とても充実感があった。
そして次の日、街中をあてもなくブラブラとしたけど
とてもつまらなかった。なんか消費しているだけって
つまらないんだなって思った。」

そんな話の流れでよっしーは生産者側、供給者側の視点や
そちら側の楽しさを体感することができたようだ。

そして今、彼はまだいろんなものを人から与えられている状態であり、
自ら与えることがあまりできていないという状態だからこそ
このような冒頭の言葉が出たのだと思う。

人の役に立つこと、人に何かを与えること、それによって相手から喜ばれること。

これって仕事の根本的な発想であり、それを彼は誰から教えられたわけでもなく
自然と口にできたことに僕はすごいなぁと感じた。

というのも今年新入社員で銀行に勤めている後輩に聞いた話だが、
「まだ入社して2ヶ月やのに同期の子達は
給料少ないとかボーナス何か月分出るかとか金の話ばかりしています。。」

という話を聞いて、一体会社は彼らに何を伝えられているのだろうと
感じたことを思い出した。

何年も働いている先輩や上司がいるのに、
きっと研修だって受けているのに、
そんな恵まれてた環境にいるにも関わらず
彼らは一向に消費者の立場から抜け出せていないことを
この言葉が全てを物語っている。

きっとよっしーはよっしーなりに試行錯誤、暗中模索しながら
自分の存在意義や責任感、お金の重みを自分自身で
感じているのではないだろうか。

彼は今ホイアンのホテルで
世界観を広げながら、日々言葉を勉強し、生産者側に立とうと
日々活動している。

いつかそんな新卒の働き方が普及する日がくるのかもしれない。

少なくとも今よっしーは僕が後輩から聞いた銀行で勤めている
子たちよりもいい何かを掴み取っているように思うのだ。


最後になったが彼は今ホイアンのホテルで働いている。

この先彼がどこに行くのはわからないが、
彼はベトナムが好きなようなので、彼にベトナムのよさや
おすすめの旅行プランを聞くもよし、彼の人生談を聞くもよし。


人に会いに行く旅なら、立ち寄ってみてくださいまし。

そんなよっしーにお問い合わせお待ちしております。




2011年8月4日木曜日

娯楽から見えた、住むこと≒生活すること

久しぶりにボウリングに行ってきた。
ベトナム人学生も一緒に行ってきた。

なんと彼らはボウリング初めてだというではありませんか!!

そういや、、
ベトナム着いて2日目にボウリング行ったときもそういう子いたなーとか
サークル の飲み会の後はたいていボウリングだったなーとか
ボウルの上に座ってる店員の女の子を見て日本だったらクビだなーとか
いろいろと考えておりました。




その後、しばしゲームに興じる。

やたらと真剣な顔でテニスゲームをやる川村が
ヲタッぽく見えたのは言うまでもない。

子どももキングオブファイターズをガチャガチャやっとります。
格ゲーはまるよな。









そして今日はベトナム人に連れられ、ライブハウス?に行ってきた。
途中飛び入りで歌う人などもおり、カラオケではないのだが、
プログラムが決まっていないライブハウスって感じだろうか。

この柔軟さというか臨機応変さというかグレーな部分が多い
システムにはある種、器の大きさ、ゆとりを感じさせてくれる。




ボウリングもゲームセンターもライブハウスもいわゆる
娯楽とかエンタテイメントっていう分野なのかなって思うのだが、
こういう仕事ではない場所で見るベトナム人の素顔は刺激になる。

ベトナム人ってどんな人なのかと問われる時、
ほとんどその意図は仕事人としてどうなのかということになる。

ただ、仕事場で見せる姿が僕たちの素顔だろうか。
そこが僕たちの性格、人間像を全て映し出しているだろうか。

仕事しているだけでも飲みにケーションするだけでも見えてこない
何に没頭し、何に怒り、何に心安らがせるのかという感情を
娯楽や遊びという日常から垣間見ることもベトナムを
理解するために大切な行為だと思う。

多くの日本人にとってベトナムに居る目的は
仕事であるから、それは生活すること、暮らすこと
と同義ではないように思う。

根本的なコミュニケーション、価値観、文化のずれというのは
日常を共有していないことにあるのではないだろうか。

そのずれを少しでも矯正するために、同じ飯を食ったり、
同じ移動手段を使ったり、同じ言葉を使ったり様々なものを重ね合わせていく。

しかしそれらの多くは仕事という大きな枠組みの中で
ずれを合わせているだけであり、仕事ではない遊びや娯楽という
枠組みの中で同じ何かを共有するということは少なかったように思う。

うん、要はベトナムに住むことで得られる理解と
ベトナム人と同じ生活をすることで得られる理解は
違うってことなんだろうな。当たり前だけど。

生き活きしないとねー。

ということでこれからは
もっと遊びにでかけんといかんですわ。